こんにちは、ライフケアコンサルタント®竹下小百合です。
私は今、いやなことは全身でアピールする1歳(2019年4月生まれ:保育園)ちょっと大人になった?10歳(2010年12月生まれ:小4)二人の男の子のママです。
仕事はフリーランス(カウンセリング・講師業)をしながら、子供の予定を最優先に家事・育児をしています。
あれから10年、もう10年、まだ10年
2月中旬~、私の住む宮城県の地元紙では「東日本大震災」の特集記事が掲載されています。
新聞だけではありません。テレビも同様です。
東北に住んでいると「月命日」にも必ず、震災関連について何かしら目にしたり耳にしたりします。
東日本大震災が起きた時、私は32歳でした。
里帰り出産から元夫の勤務する北関東へ戻り、長男と家族3人での生活をスタートさせて1ヶ月。
大きな大きな地震が起きたのはそんな日の午後でした。
駐車場で、同じ社宅の人たちと夜を過ごしたこと。
その日の夜空が、悲しくもとってもきれいだったこと。
翌日、浄水場へ水をもらいに行ったこと。
翌々日、スーパーに5時間並んで何も買えなかったこと。
ドアポストに投函された新聞で知った被害の大きさに絶望し、泣き崩れたこと。
実家の両親と電話がつながって、安心したこと。
赤ちゃんが頻繁に泣き、不安になったこと。
小さなわが子を抱えながら先、どころか「今」も見えない中で様々に心が動いたこと。
思い出せばきりがないくらいです。
そして震災から7日目の朝。
私たち親子は両親からの提案で、伯父夫婦が住む中国地方へ向かいました。
ママ失格・・・と泣いた夜
1週間ほど伯父宅でお世話になった後、マンスリーアパートでの生活をスタートさせました。
昼間はなるべく外に出て、伯母と一緒に過ごす生活をしていました。
誰も知り合いがいない土地で、伯母の存在は本当にありがたかったです。
とはいえ、生後4か月の息子は常に私と一緒。
アパートにいるときでも離れると泣くので、抱っこしながらトイレ。
お風呂で息子を洗い終えると、30秒で自分の頭、体を洗い、すぐに抱っこ。
夜泣きすると、周囲を気にしてひたすら抱っこ。
そしていつのまにか私の口癖は
「ごめんね。ごめんね」
「すいません、すいません」
赤ちゃんが泣くと謝る=私の役目になっていました。
ある日の深夜。
30分以上、泣き続け抱っこしていることに耐えられなくなり
「もうやめて!!もうやだ!!」
お布団へぼん!!と息子を置いてしまいました。
それでも息子は泣き続けていました。
何分くらい放置していたのか記憶にありません。
そして、ハッとしたのです。
せっかく授かった赤ちゃん。
元気に泣いている、私を必要としている赤ちゃんを
私、何やってるのだろう…。
涙がポロポロこぼれて
「ごめん、本当にごめんね。泣きたくて泣いてるんじゃないんだよね。ママ、失格だ…。」
息子をぎゅっと抱きしめ、大泣きしました。
ママの姿を見ることで、育つのよ
しばらくして、私たちは両親の住む仙台へ再び戻りました。
生まれ育った仙台での生活にも慣れ、落ち着いてきた頃、私はこんなことを考えるようになりました。
「もし、自分に何かあったとき。この子にどんなことができるのだろう…。」と。
ある日、そのことを目上の方にお話したところ
「特別なことなんていらない。子どもはね、ママの姿を見ることで育つのよ」
そう言われ、それなら私にもできるかも!と思いました。
▲東日本大震災当時生後3ヶ月だった息子の成長記録。この春には小学5年生に!
一瞬にしてすべてを奪ってしまう大きな出来事がありました。
そんなとき、息子に何をしてあげられるのだろう。
お金やモノを残すことはできないかもしれない。
でも…私の言葉、行動、想いは子どもの「記憶」に残すことができる。
さらに私自身が前向きに自分らしく活きる姿を見せることで、息子が将来悲しい思いをする、辛い経験をするとき、母親である私のことを思い出し、糧にして生きてほしい。
これは、今でも常に私の活動理念の1つです。
「記憶に残るママでいよう」
仕事している姿、料理している姿、泣いている姿。
全部、丸ごと見せていく。
▲東日本大震災後に暮らしていた中国地方での思い出
まもなく2021年3月11日を迎えます。
今年は、東日本大震災から10年という節目の年です。
14時46分、手を合わせます。
生きていることに感謝して。
▲津波に耐えた銀杏の木
- ともえ編集部